「まさかとは思いますが、この『●●』はあなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。」
このネットスラング(?)を私が使う日が来るとは…!胸熱…!!!
日本人は日本語に混乱している 週刊プレイボーイ連載(40)
http://www.tachibana-akira.com/2012/03/3823
論旨が大変につかみにくいので意図も結論もよくわからないのですが、一時は文学者を目指し、高校時代駿台模試で現国の偏差値が常に70を超えていた私がここで諦めるわけにはいきません、3回くらい読んで読解したところ、
日本には階級差別があったので複雑な丁寧語や尊敬語が発達し、そのせいでフラットな関係が築きにくく、交通整理の人まで丁寧語を使うありさまで、日本人は日本語に混乱している。
ということのようです。
あらー、そもそも士農工商の時代に町民がお武家様と会話をすることなんかなかったんだから丁寧語や尊敬語の展開が異なるレイヤーの関係性によるものじゃないなんて2秒考えればわかるじゃないですかー、やだなーもう。
結局「敬語めんどくせ」ってことをこの人は言いたいのかな、と思うんですけれども、そんな中学生みたいなことをいい大人がしゃあしゃあと書いちゃうわけもなかろうし、「日本人が混乱している」と言われるからには、日本語を母国語として生まれ育った私もこの対象に含まれるはずで、必ずや文化人類学的なヒントがここに、亡き金田一京助先生の遺志を継いだ深遠な「コトバ」と「ヒト」との関わりの啓示がこここにあるは…ず………
まさかとは思いますが、この「日本人」はあなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。
めんどくさいからおかしいところを箇条書きにしますね!
(1)サッカーと道路工事の交通整理で話される言葉はコンテクストの違うものである
(2)責任と権限についての考え方と言語の問題を紐づけるのは無理矢理である
(3)アメリカでは、英語では、とあるが、根拠も反証もない
(4)同じく英語をあやつる英国人もそうなのか?英国の貴族階級の「お察しください」モードの英語は京都弁を遙かに凌駕する
(5)尊敬語や謙譲語が複雑なのは日本語だけではない
(6)日本語でフラットな人間関係が築けず英語なら築けるということの検証がない
(7)そもそも、なぜ「フラットな人間関係」が好ましく、望まれているのかが語られていない
とりあえず、「アメリカ人ががさつで日本人が丁寧だ」「アメリカの交通整理員が尊大」と書いてしまう時点で、あんまりまともに論ずる文章ではないのですが、Twitterとかの反応を見ると絶望したので最後まで書きますね。脊椎反射しないで最後まで読んでね。
「日本語は敬語が面倒」などという意見をよく聞きますが、英語はじめ、他言語でももちろん敬語(尊敬語謙譲語)、敬語以上の婉曲表現なんて腐るほどあります。
例にあがっている英語でいえば、「身分」のある、英国の貴族階級では「そのまま言う」ことはエレガントではありませんので、忌避されます。「○○して」なんて直接的な表現をレディの卵がしようものなら、厳しい折檻のうえ10日は軟禁されます。それほど「言葉」というのは、社会の上流にいけばいくほど、「察せられるべきもの」でなければならないのです。
ジェントルマンがうっとうしい女に「もうおまえ顔も見たくないから帰れよ」と言いたいなら、「4月の風に運ばれてきた可憐な花の蜜のかぐわしさがわたしのまつげをふるわせるのです、マドモワゼル」と言わねばならぬのです。京女の「ぶぶづけたべなはれ」がこれにあたります。
階級社会がどうとか言い始めると、英国は日本より今でも確固たる階級社会です(むしろ、日本ほど階級社会の影響の少ない国も珍しい)。英国では「フラットな関係」が築きにくいとでもおっしゃるおつもりなのでしょうか。これさえ使えば「フラットな関係」が築けるらしい、「英語」の国ですよ!
私がこういうトンデモ記事にもプリプリするのは理由があります。生暖かく「へー、へー、すごい問題提起ですねー!」とスルーできないのは、私が「言語」そのものをふかく愛しているせいでもあり、つねに文化に対しては基準を与えることを留保する立場を取りたいと考えているせいでもあります。
この記事からは「アメリカのほうが『フラット』だからグローバルじゃん?」的な匂いを大変感じるのですが、グローバル化、グローバル化と何かにつけ言う輩は、グローバリゼーションと言いながら結局のところ、「アメリカ化」したいだけなのです。グローバリゼーションとは、本来、コンテクストの異なるあらゆる文化は優劣がなく等しく「価値がある」、ということを目指すものなのです。決して「英語を使うこと」「アメリカ的社会を実現すること」ではありません(これは会社や学校でよく「グローバル化、グローバル化」と言われるのがよくないと思います。「英語化」したいだけなら、「英語化」と置き換えるべきで、英語を使うことはグローバル化ではありません)。
言語と文化の成り立ちと発展には背景があり、文脈があります。だから、「お互いの価値観を否定し合わずにいよう」というのが、グローバリズムの目指すところなのです(「世界で多くの人が話している」言語を取得することで、その文化を学び、コンテクストを知ることがグローバリゼーションですので、英語だろうが中国語だろうがスペイン語だろうが、いずれも等しく「グローバル化」なのです)。
* グローバリズムにはもちろん困ったことがあって、「同じように認めちゃったらシーシェパードはどうするの?」ということでもありますし、私自身も「女子割礼はどうするの?」と悩んでいますが、それに答えを出せる人が今までいなかったので、世界はこのように混沌としているわけです。私も答えを知らないので、「留保」が精一杯なのです。
もちろん、「言語やそれにひもづく思考が社会にどのように影響を与えるか」というのは、言語文化論としてはとても面白い研究になります。
そのためには、英語では「フラットな関係」が築けるが日本語では築けない例を十分に集め、検証せねばなりません。さらには、なぜ英語では築けるのか、日本語では築けないのか、というところになると、英国ではどうなのでしょうか。インドではどうなのでしょうか。どちらの国も英語が公用語でありながら、強固な身分制度をもつ国です。そこで築かれる関係性は「フラット」なのでしょうか。
「英語」と言いながら、「アメリカ合衆国」に限っていますので、「結局日本がダメって無根拠に言いたいだけじゃねーか」ということになります。さらに、本当にアメリカではフラットな関係が築けているのでしょうか。合衆国では日本人が想像もつかないほどの確固たるスクールカーストがあります。このように差別化された世界で、はたして本当に関係性が言語だけによって「フラットになりうる」と言えるのでしょうか?
ありもしない「フラットさ」を目的と根拠にして語るから、「ちょっと何を言っているのかわからないのですが」となるのです。
もっといえば、フランス語や、ドイツ語、イタリア語は英語に負けず劣らず合理的な(一見「フラットな関係を築けそうな」)言語ですが、それらの国ではどうなのでしょうか。それぞれの国もずっと階級社会でした。アメリカがたまたま「フラット」に見えるとしたら、それは建国のいきさつでしかありませんし、有色人種差別は当たり前のようにあります(オバマ大統領が就任した時の熱狂の要因のひとつを思い出してください)。常識的に考えれば、「フラットに見える」アメリカ社会でさえもまったくもって「フラット」など存在しませんし、差別されている人種が白人に「フラットな物言い」をして許される場面も少ないでしょう。そもそも、黄色人種であるところの私が、アメリカのエリート階級と言葉をかわすことすらないのではないでしょうか? 私がたとえ英語を自在に用いられたとしても、不可能ではありませんか?
たしかに言語の上では恐らく私の話は「通じる」=「理解できる」でしょう。しかし、それは本当に「対等」でしょうか? そこまで社会というものは単純でしょうか?
「フラット」というのはめくらましに最適な単語です。「フラット」が、もし「対等」という意味であったとしたら、そんな関係が存在したことなど人類史上一度もありません。「フラットな関係」などただのロマンティシズムです。「関係性」が社会で成立したその時点で、どちらかに天秤は振れるのです。
Twitterでの反応を見てびっくりしました。皆さんどれだけ「フラットな関係」にだまされているのでしょう。誰しもそんな関係になどなれやしません。それに、フラットであることはそんなにすばらしいことではありません。あなたはあなたであり、私は私です。互いの差異を認めれば認めるほど、「フラット=対等」から遠ざかります。「わたし」と「あなた」は違う人間なのです。
日本は島国として、江戸時代には200年間にわたり鎖国を行ってきました。さらに、2000年以上にもおよび、世界で唯一「日本国」として同じ王朝(といってよければ)のつづいている国でもあります。このような国ですので、易姓革命、つまり、「何らかのものをもって既存のものを破壊して塗り替える」必要がなかったわけです(中国の王朝の移り変わりと重ねるとわかりやすいと思います)。明治維新までは、ゆるゆると関係性をつないで、ゆるゆると社会を存続させてきた、と考えることができるのではないでしょうか。もちろんこれほど簡単なものではありませんが、私がフランス文化を学んできて強く思うところは、日本には「革命を通して敵を徹底的に潰すことでこちらの『正統性』を表明する」必要がなかったのではないか、ということです(これは、宗教の問題でもあり、民族国家としての問題でもあるでしょう)。だからあえて日本人は「対等であること」「フラットであること」「あなたと私が同等であること」をわざわざ言う必要もなかったのです。
一見、日本語は「フラット」に用いにくいし、敬語や丁寧語が日本人にすらまわりくどく見えます。が、それは「見える」だけなのです。
もし、万が一、百歩譲って、誰かが「日本語」のせいで望む「フラットな関係」が築けないとしたら、その人は絶望的なまでに日本語がへたくそなだけなのです。言葉を用いる時に、「対等である」ということは(「対等である」スタートが成立するとすれば)、相手のあらゆるコンテクストを事前に咀嚼していなければならず、それは何語を用いようと非常に高度な技術です。
日本語を母国語として生まれ育ったのに、「英語は敬語がないから楽だよねー」とか言うのは、単に音節が短いとか、外国語のほうがかっこいいからと勘違いしているからそう言っているだけで、英語でもフランス語でも、複雑なコミュニケーションになると「奥深い森の中の少女の肩に触れたひとひらの落葉のような」という表現をせねばならず、たかが日本語の敬語が難しいと言うような人にこんな高度な外国語を使えるはずがありません。そういう人は、日本語がどれほど美しく深みのある言語なのか、そしてそれをかわし合うことがどれほどすばらしいことなのか、知らないだけなのです。そのような人には石川淳を621時間読んでいただきたい。日本語を母国語として操れることの幸福を、この言語の美しさを実感するはずです(私はジュネを専攻していましたが、ジュネのテクストを「外国人」として読まねばならぬことにいつもストレスを感じます。どの言語にもこうした僥倖があるのです)。
私がフランス人をうらやましいと思うのは、「フランス語ってすてきでしょ」と彼らが心から思っているところです。フランス語はすばらしいです。同じように、日本語も、アイヌ語も、英語も、スワヒリ語もすばらしく、美しく、豊かで重みがあり、それが言語として使われるに至っただけの歴史のあるものです。
私たちを育んできた言語を、このように断罪することは、日本語のみならず、他言語をも誹謗することであり、「人間」の文化に対する冒涜でもあります。
私たちが用いてきた言語は、ひとに何らかの制約を与える、しごく扱いづらい最悪の道具という側面をもちながらも、ひととひとがあらゆる場面でふれあうことをそれぞれのコンテクストで可能にする、至高かつ最強の道具なのです。
そうでなければ、ギリシア時代あたりでとっくに哲学者はじめ人々はこの「コトバ」を手放しているはずなのです。
こうした「コトバ」をどこまでも卑俗化している、という点において、この記事に反論せねばならないと思いましたし、「なるほど」とか思っちゃった方は少々考え直していただき、さらに、週刊プレイボーイなんでマジレスすんのもアホくさいんですけど、編集者は「こりゃないっすよwwwww」と原稿を突っ返す勇気をもっていただきたい、と心から思います。